目的地にしたい料理屋【Simples】

風光明媚な里山に、天然地魚を使ったコース料理を食べられるレストランがある。静岡県静岡市駿河区丸子の泉ヶ谷というエリアに店を構える〈Simples〉だ。
 
JR静岡駅から泉ヶ谷まで車で移動すること約15分。百貨店や美術館が並ぶ駅前の街を抜け、東海道二十番目の宿場町・丸子の入り口に入ると、車窓の景色は緑豊かでのどかな山間の風景へと様変わりしてゆく。〈Simples〉まで、あと少しだ。
泉ヶ谷は、ゆったりと時間が流れていく穏やかなエリアだ。春先には梅や菜の花が咲き乱れ、あたりには鳥のさえずりが響き渡る。かといって静かすぎるわけではなく、程よく開けていて居心地がいい。というのも、〈Simples〉から歩いて1分弱の場所には日本最大級の工芸体験施設、〈駿府の工房 匠宿〉や〈泉ヶ谷 工芸ノ宿 和楽〉があり、適度に人が流れているのだ。この〈泉ヶ谷 工芸ノ宿 和楽〉がまた趣深く、今日は〈Simples〉でディナーを堪能したあとにここで一泊するつもりでやってきた。
予約したのは、ディナーのSIMPLES 15,000円のコース。席についてカウンターに置かれたメニューを見てまず驚いたのは、ほぼすべての料理に魚介類が使われていること。当日の仕入れによってメニューは変わるが、アミューズ+9品のコース料理のなかに13〜14種類の魚が入る。その日はエビにはじまり、サザエ、鯵、キハダマグロ、平鯵、赤ムツ、石鯛、ジンドウイカと錚々たる食材が並んでいた。
オーナーシェフの井上靖彦さんが料理の世界に入ったのは20歳のときのこと。福岡で〈KIHACHI〉に就職し、日本におけるアメリカ・カリフォルニアのフュージョン料理の第一人者、熊谷喜八さんの店で創作無国籍料理を学んだ。やがて「さまざまな食文化を融合させた料理をつくるには、まずは一つ一つの料理の基礎を知らなくてはいけない」と思うようになり、海外へ。ベルギー、フランス、イタリア、アメリカなどで各地域の料理を研究した。

多くの経験を得て、いつからか「セッション(ミュージシャン達が集まって即興的に演奏をすること)」という言葉が井上さんの料理のテーマになっていた。一皿の料理は、食材の生産者、料理をのせる器の作家、そして料理人である井上さんといったさまざまな演者による合作だと捉えるようになったのだ。
〈Simples〉では焼津の老舗鮮魚店〈サスエ前田魚店〉の店主・前田尚毅さんが仕立てた新鮮な天然地魚を毎日仕入れている。当日に前田さんから連絡が入るまで、その日に何が届くのか井上さんにはわからない。なぜなら、港に届いた魚のなかでその日一番のものを前田さんが選ぶから。「今日は鯵が素晴らしい!」と3種類の鯵が届けば、井上さんはそれをもとにメニューを考える。
 
「自分が求める食材を使うだけではなく、地元・駿河湾の獲れたての魚を使うことも大切にしています。前田さんは魂を込めて魚を扱っている、国内外からも注目される魚のプロ。彼が『今日の一番』と持ってきてくれたものであれば間違いない。そして、到着した食材を見ながらスタッフと一緒に『どんな料理にするといいか』と考えます。そうすると、私一人の頭の中で考えて作るよりももっと広がりのある料理になる。それが、料理におけるセッションの醍醐味なんです」
 
と、井上さんは話す。セッションする相手は、人だけではない。魚が生きている駿河湾、野菜が栽培される山々といった自然との対話でもあるのだ。
 

駿河湾のアカザエビと鹿コンソメの冷菜。井上さんの知り合いのハンターが仕留めた鹿はジビエの概念を覆すほどクリアな味わいで、ハーブの香りと相まって驚くほどすっきりとした印象を受ける。コンソメの下では、プリプリのアカザエビと、素材の旨味がぎゅっと詰まった富士宮にんじんのピューレを組み合わせている。

〈サスエ前田魚店〉独自の技法「游がせ(およがせ:沖で獲った魚を、船の中の生けすに入れて生きたまま港まで運ぶこと)」の鯵は、とにかく鮮度が抜群。「魚にナイフを入れた時の手の感覚や、口に入れた時の食感をしっかり感じ取って、『魚を食らう』ことを楽しんでほしい」という理由から、自家製の山椒オイルをかけて生野菜を添えるのみのシンプルな一皿に仕上げている。游がせの鯵はピチピチとしていて、ギュッと引き締まった身はムッチリとした質感もあり、噛むほどに旨味が広がる。
料理に使う野菜やハーブは、主に近隣の農家から直接買い付けている。

「静岡には日本一高い富士山と日本一深い駿河湾があり、複雑な地形が広がっています。この地の生み出す食材をふんだんに使っていることが、〈Simples〉の料理の一番の特徴です」

と、井上さん。時には井上さんやスタッフの誰かが山や畑に収穫に行くこともある。山椒オイルに漬け込んでいる山椒の実も、夏の終わりに井上さんが自ら野山に分け入り摘んできたものだ。

静岡という土地と向き合ううちに、井上さんの料理も変わってきた。

「西洋料理ではバターや生クリームを使ってコクを加えることがあり、以前は私もそういった技法を取り入れていました。ある頃から、もっとダイレクトに食材の香りや味を感じられる料理を作りたいと思い始め、乳製品を使うことが少なくなりました。例えばにんじんのピューレを作る時であれば、余計なものを加えずににんじんのみを無水鍋で煮詰めて旨味を凝縮させ、素材本来の味をしっかり感じられるように仕上げていきます」
 

〈Simples〉の料理は西洋料理がベースだが、時には他の国・地域の食文化を感じさせるメニューも。平鯵のフリットはエジプトの料理からインスピレーションを得ていて、石臼で挽いたクミンやコリアンダー、ゴマなどのスパイスをたっぷりとかけて香り付けしている。油で揚げた甘鯛のウロコが添えられていて、プチプチ、パリパリとした食感を楽しめる。
一皿に地のものをふんだんに取り入れる、という井上さんの思いは食材を超えて器にも広がりつつある。〈Simples〉で使っている器の中には、前述の〈駿府の工房 匠宿〉で活動する作家の作品もたくさん含まれている。
 
「静岡は23種類の工芸品が残る、国内でも特別な地域。〈Simples〉というレストランを、泉ヶ谷に息づくありとあらゆる伝統をつないでいく場にしたい。それが今の目標です。工芸や食といった形でジャンルごとに分かれているもののセッションを行い、新たなものを生み出していきたい。実は店名も、シンプルな物が集合する場、という思いに由来しているんです」
 

赤ムツと大浦ごぼうを使った温菜。ペースト状にした大浦ごぼうは、ヤシの実油やココナッツミルクを使ったブラジルの海鮮シチュー・ムケッカをイメージした調理をしている。脇に添えた小皿の中身は、ツクピー(ブラジル北部のアマゾン料理に使われるソース)。〈Simples〉ではツクピーにさらに唐辛子を加えてバチっと辛味をきかせる。まずは淡白な赤ムツとマイルドな味の大浦ごぼうを堪能し、途中からツクピーをかけるとピリッとアクセントが加わって味の変化を楽しめる。
井上さんのそんな言葉の余韻に浸りながら、歩いて〈泉ヶ谷 工芸ノ宿 和楽〉へ。ディナーを満喫しているうちにすっかり日が暮れ、空では満天の星が輝いていた。

カウンター13席で、17時半からと19時からの一斉スタート。料理はSIMPLES 15,000円(税別)とOMAKASE17,000〜20,000(税別)と2つのコースがある(OMAKASEは当日のメニュー構成や食材により料金が変動。また当日の仕入れ状況によってコースはSIMPLESのみとなることもあり)。5杯と8杯のワインペアリングもおすすめ。電話またはお店のウェブサイトで予約を受け付けている。

和楽別邸は全部で5部屋。それぞれの客室は築100年を超える古民家をリノベーションしたもので、職人の手による家具や道具を設えている。

〈Simples〉でのディナーから一夜明け、朝の日差しのなかであらためて部屋を見渡すと建物の柱や梁、床から家具に至るまでの一つ一つに宿る職人技に惚れ惚れした。
まず、スプーンカットという技法で設えた木材の床は、スベスベとしていて裸足で歩きたくなるような心地よさ。ベッドサイドや照明に使われている駿河竹千筋細工は繊細で美しく、いつまでも見ていられそうだ。

遠州綿紬の部屋着に茶染めの襖と、部屋の中で過ごしているだけで博物館にいるかのように工芸品に触れることができる。
 

築100年を超える古民家を、木の梁や柱の造りはそのままに客室として改築した宿。家具は工芸品が揃う。和楽別邸のそれぞれの客室(5室)にプライベートサウナを完備。浴室には檜の風呂、檜でつくられた水風呂を設置。公式ウェブサイトから予約を受け付けている。
聞けば、部屋ごとにコンセプトが異なるので、来るたびに泊まる部屋を変える常連客もいるらしい。確かに、それも楽しそうだ。

きっと、〈Simples〉も来るたびに違う魚、料理に出会えるだろう。泉ヶ谷に何度も足を運びたくなる理由ができた気がした。



Text:Ayano Yoshida
Photo:Yuji Kanno



いつもと違う静岡県観光には、静岡市の〈Simples〉〈泉ヶ谷 工芸ノ宿 和楽〉がおすすめ。

Simples


所在地静岡県静岡市駿河区丸子3262-1
アクセスJR静岡駅から車で約20分
電話番号054-330-8289
URLhttps://simples.world/
Instagram@restaurant_simples
営業時間17:30〜22:00(L.O.) ※ランチは土日限定で12:00〜
休業日火曜


 

泉ヶ谷 工芸ノ宿 和楽


所在地静岡県静岡市駿河区丸子3375-1
アクセスJR静岡駅から車で約20分
電話番号050-5530-4338(フロント)
URLhttps://craftinn-waraku.jp/
Instagram@craftinn_waraku


 
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