目的地にしたい料理屋【Simples】
JR静岡駅から泉ヶ谷まで車で移動すること約15分。百貨店や美術館が並ぶ駅前の街を抜け、東海道二十番目の宿場町・丸子の入り口に入ると、車窓の景色は緑豊かでのどかな山間の風景へと様変わりしてゆく。〈Simples〉まで、あと少しだ。
多くの経験を得て、いつからか「セッション(ミュージシャン達が集まって即興的に演奏をすること)」という言葉が井上さんの料理のテーマになっていた。一皿の料理は、食材の生産者、料理をのせる器の作家、そして料理人である井上さんといったさまざまな演者による合作だと捉えるようになったのだ。
「自分が求める食材を使うだけではなく、地元・駿河湾の獲れたての魚を使うことも大切にしています。前田さんは魂を込めて魚を扱っている、国内外からも注目される魚のプロ。彼が『今日の一番』と持ってきてくれたものであれば間違いない。そして、到着した食材を見ながらスタッフと一緒に『どんな料理にするといいか』と考えます。そうすると、私一人の頭の中で考えて作るよりももっと広がりのある料理になる。それが、料理におけるセッションの醍醐味なんです」
と、井上さんは話す。セッションする相手は、人だけではない。魚が生きている駿河湾、野菜が栽培される山々といった自然との対話でもあるのだ。
駿河湾のアカザエビと鹿コンソメの冷菜。井上さんの知り合いのハンターが仕留めた鹿はジビエの概念を覆すほどクリアな味わいで、ハーブの香りと相まって驚くほどすっきりとした印象を受ける。コンソメの下では、プリプリのアカザエビと、素材の旨味がぎゅっと詰まった富士宮にんじんのピューレを組み合わせている。
〈サスエ前田魚店〉独自の技法「游がせ(およがせ:沖で獲った魚を、船の中の生けすに入れて生きたまま港まで運ぶこと)」の鯵は、とにかく鮮度が抜群。「魚にナイフを入れた時の手の感覚や、口に入れた時の食感をしっかり感じ取って、『魚を食らう』ことを楽しんでほしい」という理由から、自家製の山椒オイルをかけて生野菜を添えるのみのシンプルな一皿に仕上げている。游がせの鯵はピチピチとしていて、ギュッと引き締まった身はムッチリとした質感もあり、噛むほどに旨味が広がる。
「静岡には日本一高い富士山と日本一深い駿河湾があり、複雑な地形が広がっています。この地の生み出す食材をふんだんに使っていることが、〈Simples〉の料理の一番の特徴です」
と、井上さん。時には井上さんやスタッフの誰かが山や畑に収穫に行くこともある。山椒オイルに漬け込んでいる山椒の実も、夏の終わりに井上さんが自ら野山に分け入り摘んできたものだ。
静岡という土地と向き合ううちに、井上さんの料理も変わってきた。
「西洋料理ではバターや生クリームを使ってコクを加えることがあり、以前は私もそういった技法を取り入れていました。ある頃から、もっとダイレクトに食材の香りや味を感じられる料理を作りたいと思い始め、乳製品を使うことが少なくなりました。例えばにんじんのピューレを作る時であれば、余計なものを加えずににんじんのみを無水鍋で煮詰めて旨味を凝縮させ、素材本来の味をしっかり感じられるように仕上げていきます」
〈Simples〉の料理は西洋料理がベースだが、時には他の国・地域の食文化を感じさせるメニューも。平鯵のフリットはエジプトの料理からインスピレーションを得ていて、石臼で挽いたクミンやコリアンダー、ゴマなどのスパイスをたっぷりとかけて香り付けしている。油で揚げた甘鯛のウロコが添えられていて、プチプチ、パリパリとした食感を楽しめる。
「静岡は23種類の工芸品が残る、国内でも特別な地域。〈Simples〉というレストランを、泉ヶ谷に息づくありとあらゆる伝統をつないでいく場にしたい。それが今の目標です。工芸や食といった形でジャンルごとに分かれているもののセッションを行い、新たなものを生み出していきたい。実は店名も、シンプルな物が集合する場、という思いに由来しているんです」
赤ムツと大浦ごぼうを使った温菜。ペースト状にした大浦ごぼうは、ヤシの実油やココナッツミルクを使ったブラジルの海鮮シチュー・ムケッカをイメージした調理をしている。脇に添えた小皿の中身は、ツクピー(ブラジル北部のアマゾン料理に使われるソース)。〈Simples〉ではツクピーにさらに唐辛子を加えてバチっと辛味をきかせる。まずは淡白な赤ムツとマイルドな味の大浦ごぼうを堪能し、途中からツクピーをかけるとピリッとアクセントが加わって味の変化を楽しめる。
カウンター13席で、17時半からと19時からの一斉スタート。料理はSIMPLES 15,000円(税別)とOMAKASE17,000〜20,000(税別)と2つのコースがある(OMAKASEは当日のメニュー構成や食材により料金が変動。また当日の仕入れ状況によってコースはSIMPLESのみとなることもあり)。5杯と8杯のワインペアリングもおすすめ。電話またはお店のウェブサイトで予約を受け付けている。
〈Simples〉でのディナーから一夜明け、朝の日差しのなかであらためて部屋を見渡すと建物の柱や梁、床から家具に至るまでの一つ一つに宿る職人技に惚れ惚れした。
遠州綿紬の部屋着に茶染めの襖と、部屋の中で過ごしているだけで博物館にいるかのように工芸品に触れることができる。
築100年を超える古民家を、木の梁や柱の造りはそのままに客室として改築した宿。家具は工芸品が揃う。和楽別邸のそれぞれの客室(5室)にプライベートサウナを完備。浴室には檜の風呂、檜でつくられた水風呂を設置。公式ウェブサイトから予約を受け付けている。
きっと、〈Simples〉も来るたびに違う魚、料理に出会えるだろう。泉ヶ谷に何度も足を運びたくなる理由ができた気がした。
Text:Ayano Yoshida
Photo:Yuji Kanno
いつもと違う静岡県観光には、静岡市の〈Simples〉〈泉ヶ谷 工芸ノ宿 和楽〉がおすすめ。
Simples
所在地 | 静岡県静岡市駿河区丸子3262-1 |
アクセス | JR静岡駅から車で約20分 |
電話番号 | 054-330-8289 |
URL | https://simples.world/ |
@restaurant_simples | |
営業時間 | 17:30〜22:00(L.O.) ※ランチは土日限定で12:00〜 |
休業日 | 火曜 |
泉ヶ谷 工芸ノ宿 和楽
所在地 | 静岡県静岡市駿河区丸子3375-1 |
アクセス | JR静岡駅から車で約20分 |
電話番号 | 050-5530-4338(フロント) |
URL | https://craftinn-waraku.jp/ |
@craftinn_waraku |
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