小説片手に、文豪ゆかりの地を訪ねる。

デジタルデトックスの旅【熱海編】

古くから優れた温泉地として知られる熱海。温泉だけでなく、海と山の自然に恵まれたこの地は避暑地としても人気で、谷崎潤一郎や志賀直哉、太宰治など名だたる文豪に愛された。

今回はデジタルデトックスをテーマに、多くの文豪を虜にした熱海の名スポットをめぐる旅。東京駅から新幹線で約40分程度と気軽に行ける熱海は、いつもとひと味違う旅をするにはうってつけの場所だ。旅のお供はスマホではなく、小説。最近は読書の時間がなかなか取れていなかったから、1泊2日のゆったりした旅で、本とじっくり向き合ってみるのもいいかも。熱海にゆかりのある文豪が書いた小説や、自分のお気に入りの本などを数冊持って、本と一緒に旅路を楽しんでみよう。

大正ロマンの雰囲気を残す〈起雲閣〉。


最初に訪れたのは、熱海市の有形文化財に指定されている〈起雲閣(きうんかく)〉。もとは1919年に実業家の内田信也が建てた別荘で、当時は「湘雲荘(しょううんそう)」と呼ばれていたそう。その後、“鉄道王”と呼ばれた実業家・根津嘉一郎が譲り受け、増改築と美しい庭園の拡張を行った。1947年には、実業家の桜井兵五郎の手にわたり、客室や宴会場などを増築した後、旅館として開業。この時代には太宰治や志賀直哉など数々の文豪が、〈起雲閣〉を訪れたといわれている。
もとは熱海の三大別荘のひとつとして数えられていた〈起雲閣〉。
もとは熱海の三大別荘のひとつとして数えられていた〈起雲閣〉。
〈起雲閣〉は日本家屋の和館と離れ、欧州や中国の様式を加えた洋館、そして緑豊かな庭園から成る。1000坪の敷地を有する庭は、館のどの位置から眺めても美しく見えるよう設計されていて、建物内からゆったり景色を楽しむのもよい。

初めに訪れたのは、和館にある客室「大鳳(たいほう)」。座敷と同じ高さの畳廊下が周りを囲む造りは「入側造(いりかわづくり)」と呼ばれ、最初の持ち主であった内田信也が車椅子生活だった母のために採用した。
客室「大鳳」
客室「大鳳」
1948年3月に太宰治が宿泊したと知られるこの客室。窓に使われている大正ガラスはゆがみがあるのが特徴で、ガラス越しの景色が揺らいで見える。太宰治もこの味わい深い景色を眺めていたのだろうか。
洋館「玉渓」の窓
洋館「玉渓」の窓
洋館「玉姫・玉渓(たまひめ・ぎょくけい)」は、日本建築に中国や中世英国の様式や装飾が施された独特の空間になっている。色鮮やかなステンドグラスや、唐草模様の彫刻が美しい。「玉渓」では、小説家の志賀直哉・谷崎潤一郎・山本有三の3名が文芸対談を行ったと伝えられている。離れの「孔雀(くじゃく)」は落ち着いた雰囲気で、いっそう凛とした空気を感じられた。小説家の舟橋聖一や武田泰淳などが滞在し、執筆活動を行ったそう。一説によると、三島由紀夫が新婚旅行で宿泊した客室も、この「孔雀」と考えられている。建築当時のまま残っている窓からは、美しい庭園の景色が楽しめた。細部まで美意識が宿ったこの場所なら、自然と創作活動も捗ったに違いない。
離れの「孔雀」
離れの「孔雀」

〈モンブラン〉で文豪が愛したモカロールを。


次に〈起雲閣〉を利用していた谷崎潤一郎も通ったとされる〈カフェ モンブラン〉を目指す。

はじめは西洋料理店としてスタートしたという〈カフェ モンブラン〉。創業者の新田道雄さんは、横浜ニューグランドホテルでフランス料理を学ぶと同時に、日本洋菓子界の先駆者として名高いスイス人のエス・ワイルに師事。腕を磨いた後、1947年に西洋料理店「モンブラン」を創業した。
「父は真面目で、材料も調理の工程も一切の妥協を許さない性格でした。そのまっすぐな性格を気に入っていただいたのか、谷崎先生がとてもよくしてくださったみたいです。よく谷崎先生のご自宅に招かれ、コース料理を振る舞ったと聞いています」と新田さんのご長女の村井梢さん。
新田道雄さんの子女の村井梢さん。
新田道雄さんの子女の村井梢さん。
なかでも谷崎潤一郎が惚れ込んでいたのは、コース料理の最後に提供していたモカロールだ。ふんわりと柔らかい生地に、コーヒーが香る特製のバタークリームがたっぷり包まれている。「モンブラン」が洋菓子専門店になった後も、執筆後にはモカロールを必ず買いに来られたそうだ。昔と変わらない製法で作られているので、彼が愛した味わいを時を超えて楽しむことができる。モカロールとともに、お店の看板商品となっているのがモンブランだ。よくあるマロンクリームを細く束状に絞ったものではなく、サバラン生地に生クリームを高く盛り付けた見た目が珍しい。ヨーロッパ好きの新田さんがフランスとイタリアの国境にある山・モンブランをイメージして、考案したのだという。上に盛り付けた生クリームで、モンブランに降った雪を表現している。
ラム酒が効いた大人の味わいのモンブラン 1ピース360円。
ラム酒が効いた大人の味わいのモンブラン 1ピース360円。
他のケーキにも新田さんのこだわりが活きている。冬季限定のアップルパイもそのひとつ。バターをのせた生地を三つ折りにする工程を3回繰り返す、特製の折りパイ菓子はサクサクとした食感が魅力。商品名の「ショソン」は、フランスでアップルパイの意味を持つ「ショーソン・オ・ポム」が由来となっている。
「これからも変わらず、こだわりの味を届けたい」と最後に話してくれた村井さん。創業当時から変わらない味で、歴史と伝統を今に伝えていく。

文豪が足しげく通った〈スコット〉へ。


夕食を食べる前に、一旦ホテルにチェックインすることに。今回利用するホテルは〈ロマンス座カド〉。今はなき熱海最後の映画館「ロマンス座」の一角をリノベーションした宿泊施設だ。「ロマンス座」の“角”にあるから、〈ロマンス座カド〉という名前なのだそう。
客室は全部で6室あり、それぞれが熱海に昔から根づくカルチャーをイメージした造りになっている。今日泊まる203号室は、ジャズをイメージしたシックなお部屋。終戦後、進駐軍が駐留していた熱海には自然とジャズが浸透し、ジャズ文化として根づいていったという。
夕食の時間までしばし休憩。レトロな空間でゆったり読書を楽しんでいたら、まるで昭和時代にタイムスリップしたような気分になった。
さて、お店の開店時間となったので、〈レストラン スコット〉へと向かう。〈レストラン スコット〉は、1946年創業の老舗の洋食屋さん。志賀直哉や谷崎潤一郎などの文豪が通った名店として知られている。
オープン当初から、洋画家の鈴木信太郎や、志賀直哉などが訪れていた。
オープン当初から、洋画家の鈴木信太郎や、志賀直哉などが訪れていた。
フレンチレストランの村上開新堂や、横浜のホテルニューグランドなど名だたる名店で修業をした蓮見健吉さんが創業。当初は旅館「寿」の従業員寮の一角を借りて運営していたため、「寿」という店名で営業されていたそう。実業家の山下太郎のすすめで、ロンドンの有名なローストビーフ店から名前を取り、〈レストラン スコット〉という店名に変更した。健吉さんは特に志賀直哉に気に入られ、度々自宅に呼ばれて料理を振舞っていたそう。〈レストラン スコット〉は、当時では珍しくコーヒーを扱っていたため、散歩帰りに志賀直哉が立ち寄り、コーヒーを勝手に飲みながら、健吉さんが出勤してくるのを待っていたというエピソードもある。
現在は、3代目の蓮見健介さんが引き継ぎ、今でも当時と変わらない味を提供し続けている。せっかくなので、今日は贅沢に人気のディナーコース(6,820円)を注文することに。

オードブルやスープ、海老のフライ、サラダなどにメインディッシュがついたフルコースで満足度たっぷり。メインディッシュは、ビーフシチューやタンシチュー、アワビのコキュールなどから選べる。
本日のオードブル。お肉の前菜2品とお魚の前菜2品の盛り合わせ。ワインと合わせて楽しみたい。
本日のオードブル。お肉の前菜2品とお魚の前菜2品の盛り合わせ。ワインと合わせて楽しみたい。
メインディッシュは一番人気のビーフシチューをチョイス。デミグラスソースは初代の健吉さんの時代から変わらないレシピで作られている。

「野菜や牛肉を焼いて、デミグラスソースのベースで煮込んでは漉すという工程を、1週間毎日続けてできあがるソースです。祖父は職人気質で、材料や調理の工程に妥協せずにじっくり料理に向き合っていました。そのこだわりをしっかり受け継いでいます」と3代目の健介さん。
志賀直哉も愛したビーフシチュー。ほろほろになるまで煮込んだ柔らかいお肉に、まったりとしたデミグラスソースが絡み、絶品だ。文豪に思いを馳せながら料理に舌鼓。熱海ならではの楽しみ方といえる。
デザートのかぼちゃプリンは、まったりとした舌触りで思わず笑顔に。深いコクのあるコーヒーとよく合う。
デザートのかぼちゃプリンは、まったりとした舌触りで思わず笑顔に。深いコクのあるコーヒーとよく合う。

〈創作の家〉でゆったりとした時間を。


翌日、熱海駅に戻った折に〈池田満寿夫・佐藤陽子 創作の家〉を訪れる。熱海駅から徒歩10分ほど、小高いところにあるこの施設は、芸術家の池田満寿夫と、ヴァイオリニストの佐藤陽子夫妻が実際に暮らし、芸術活動の拠点とした場所である。
池田満寿夫は小説の執筆以外に、版画や陶芸、水彩画など、数多くの芸術作品を残したマルチアーティスト。1977年には小説『エーゲ海に捧ぐ』で芥川賞を受賞している。ここでは彼の直筆原稿や、作品の数々を眺めることができる。
2階のアトリエには『エーゲ海に捧ぐ』の直筆原稿が展示されている。
2階のアトリエには『エーゲ海に捧ぐ』の直筆原稿が展示されている。
2人のアトリエでもあり、生活の基盤となっていたこの場所は、心なしか暖かく穏やかな空気が流れているように感じられる。ここで日々の生活を楽しみながら、池田満寿夫は数々の作品を生み出してきたのであろう。
 
住宅は自ずとその人らしさが滲み出る場所だ。落ち着いた内装ながらも、センスよく配置された調度品や家具を眺めていると、2人の芸術を愛する心を垣間見ることができるようだ。
最近では新しいお店がどんどん増えている熱海だが、昔からの老舗店や歴史的建造物も点在しており、多くの偉人が愛した街並みを感じることができる。文豪にゆかりのあるスポットを訪ねながら、思いを馳せてみると、何度か読んだ小説も違った印象に感じられるから不思議だ。次は熱海を舞台にした小説を持って、めぐってみるのもおもしろいかもしれない。


▼京都でのデジタルデトックスの旅はこちら



Text:Ayumi Otaki
Photo:Misa Nakagaki



いつもと違う静岡県観光には、〈起雲閣(きうんかく)〉〈カフェ モンブラン〉〈ロマンス座カド〉〈レストラン スコット〉〈池田満寿夫・佐藤陽子 創作の家〉がおすすめ。
 

起雲閣(きうんかく)


所在地静岡県熱海市昭和町4-2
アクセスJR熱海駅から徒歩約20分
電話番号0557-86-3101
URLhttps://www.city.atami.lg.jp/shisetsu/bunka/1002036/1002039.html
営業時間9:00〜17:00(最終入館は16:30まで)
休業日水曜(祝日の場合は開館)、12月26日〜30日
その他入館料 大人610円、高・中学生360円、小学生以下無料


 

伝統フランスケーキ&カフェ モンブラン


所在地静岡県熱海市銀座町4-8
アクセスJR熱海駅から徒歩約15分
電話番号0557-81-4070
URLhttp://atamimontblanc.web.fc2.com/
営業時間10:00〜18:00(週末は19:00まで)
休業日水曜


 

ロマンス座カド


所在地静岡県熱海市銀座町8-11
※チェックイン場所は姉妹店guest house MARUYA(静岡県熱海市銀座町7-8 1F)
アクセスJR熱海駅から徒歩約15分
電話番号0557-82-0389
URLhttps://romancezakado.snack.chillnn.com/


 

レストラン スコット


所在地静岡県熱海市渚町10-13
アクセスJR熱海駅から車で約5分
電話番号0557-81-9493
URLhttps://restaurant-scott.com/
営業時間ランチ12:00〜(最終入店は13:30まで)、ディナー17:00〜(最終入店は19:00まで)
休業日木曜


 

池田満寿夫・佐藤陽子 創作の家


所在地静岡県熱海市海光町10-24
アクセスJR熱海駅から徒歩約10分
電話番号0557-81-3258
URLhttps://www.city.atami.lg.jp/shisetsu/bunka/1002036/1002046.html
営業時間9:00〜16:30(最終入館は16:00まで)
休業日火曜(祝日の場合は開館)、年末年始
その他入館料 大人360円、高・中学生240円、小学生以下無料


 
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