漁村のなかにひっそりと佇む不思議な本屋

三重県南部に位置する尾鷲市は三方を山に囲まれ、東は熊野灘に面した自然あふれる地域。今回は熊野灘沿岸の伝統的な漁村・九鬼町を訪ねる。九鬼町は昔からブリの一大産地として知られ、漁業で栄えてきた町。戦国時代に活躍した“九鬼水軍”発祥の地でもある。港には透明度の高い海が広がり、写真が映えるスポットとしても人気だ。海と山が一望でき、のどかな風景に癒される。目的地の古書店〈トンガ坂文庫〉は、漁港からほど近い住宅地のなかにある。まるで迷路のような細い路地を進み、坂を上ると、その看板が突如現れた。一見するとまるで本屋には見えない外観。しかし古民家を改造した店内は趣があり、棚にはぎっしりと本が詰まれていて、わくわく感が刺激される。さっそく〈トンガ坂文庫〉を運営する豊田宙也さんと本沢結香さんにお話を聞いた。
「集落が斜面に立っているので、この辺は細い路地が入り組んでいて、坂の多い場所なんです。店名の『トンガ坂』も目の前にある坂道の愛称からとりました。『トンガ』とは地元の方言で『大ほら吹き』とか『話を大きくする人』などの意味がある言葉。昔、その坂の付近に『トンガ』な人が数名住んでいたことから、村の人々が親しみを込めて『トンガ坂』と呼んでいたそうです。最近その坂は別の名前で呼ばれ始めているのですが、昔の名前を残したくて店名につけました」(豊田さん)
右から〈トンガ坂文庫〉を運営する豊田宙也さんと本沢結香さん
右から〈トンガ坂文庫〉を運営する豊田宙也さんと本沢結香さん
「狭い路地や階段を通らないと辿りけない場所にある不思議な本屋なのですが、漁村のなかのほうまで人が入ってきてくれることに面白みを感じています。ここを目的地にして来てくれる人もいて、名古屋や京都、岡山からも足を運んでくれます」(本沢さん)

〈トンガ坂文庫〉は本好きだった2人が2018年にオープンしたお店。2人とも他県出身だが、仕事などの関係で九鬼町を訪れ、出会ったという。
地元の大工さんや、友人のデザイナーなど多くの人の協力を得て内装をリフォーム。
地元の大工さんや、友人のデザイナーなど多くの人の協力を得て内装をリフォーム。
「僕は10年前に地域おこし協力隊でこの町に来たのがきっかけ。ここはもともと知人が住んでいた物件で、お風呂がなく住居には不便だったため、お店をするのも良いかなと思ったんです。この町に本屋がなかったことも理由のひとつですが、長く住み続けたいという気持ちがあり、本屋を立ち上げたいと考えるようになりました」(豊田さん)

三重県は和歌山県と同じく、ほぼ全国に存在する古書組合がない県。当時は三重県自体にも本屋が少なかったという。現在は〈トンガ坂文庫〉をはじめとした個人書店が増え、イベントの開催にもつながり、盛り上がりつつある。

 

来てもらった方の心に1冊でも刺さる本を


〈トンガ坂文庫〉に置かれている本の選書は、古本や新書に限らず、2人で協力して行っている。自分たちが好きな本だけでなく、この辺りの地域が出てくる本や人文哲学系の本など、じつにさまざまなバリエーションの本を置いている。たとえば九鬼町つながりで、哲学者の九鬼周造の本も揃えている。九鬼周造は九鬼水軍を率いた戦国武将の子孫であり、自らのルーツを訪ねるため実際に九鬼町を訪れたこともあるという人物だ。
「遠くから来てくれる方もいるので、何か1冊でも心に留まるようジャンルを狭めず、さまざまな本を置くようにしています。自分たちの好きな本だけ置くという尖ったやり方は、やっぱり都会でないと難しいかなと感じています。通ってくださるお客様の顔を思い浮かべて、本を選ぶこともありますね」(本沢さん)

特に、九鬼町にちなんだ本は良く手に取ってもらえるそう。今回、旅におすすめの本として紹介してくれた『ニッポン周遊記』(池内 紀)もそのひとつ。「この本は全国の町や村を訪ねる旅エッセイで、九鬼町が出てきます。出版元である青土社に尾鷲市出身の方がいて、たまたま知り合った際に本を紹介してもらったんです。著者の池内さんは九鬼に来る際に電車を乗り過ごしてしまい、ひと駅分歩くというところから九鬼町の旅が始まります。かなり長い距離なんですけどね(笑)。道中の地元の方との会話や、九鬼の歴史なども交えて紹介していて、自分も知らなかったことが発見できるのがおもしろいです」(本沢さん)
 
「本のなかに、九鬼町の伝統銘菓である『虎の巻』が出てきます。ロールケーキ型のどら焼きのようなお菓子で、その昔、遠洋漁業で出る船は一斗缶で購入して海へ出ていたそうです。以前、『虎の巻』のお店は3軒ありましたが、今は1軒のみ。この本をきっかけに町のことを知ってもらえたら嬉しいですね」(豊田さん)
本屋としては不思議な場所にある〈トンガ坂文庫〉。「ここに来てくれただけでありがたい気持ちでいっぱいになる」と最後に話してくれた2人。“ずっと来てみたかったんです”、“この本、探していたんです”という声がけが何より嬉しいという。
 
〈トンガ坂文庫〉だからこそ良い意味で雑多さを目指し、お客さんのことを第一に思った本屋を続けることが今後の目標だそう。九鬼町唯一の本屋は、これからも人との交流を生み、町の良さを伝え続ける場所になるのであろう。

Text:Ayumi Otaki
Photo:Shinya Tsukioka



いつもと違う三重県観光には、尾鷲市の〈トンガ坂文庫〉がおすすめ。

トンガ坂文庫


所在地三重県尾鷲市九鬼町121
アクセスJR九鬼駅から徒歩約20分
Instagram@tongazaka_bunko_
営業時間11:00〜17:00(土日祝のみ営業)
休業日不定休

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