まちの人の声に応えて、はじめた本屋
神奈川県の南西部に位置する足柄下郡真鶴町。相模湾を臨むこのまちは山と海の豊かな自然に囲まれ、起伏に富んだ優美な地形を地中海の景勝地になぞらえ「東洋のリヴィエラ」とも呼ばれている。JR真鶴駅から徒歩約5分、静かな住宅街の一角に、新刊と古本を扱う本屋、畳のカフェ、子ども向けの図書館を併設した〈道草書店〉はある。丸くカットされたひさしが目印だ。
オーナーの中村竹夫さん・道子さん夫妻は、ともに東京出身。結婚して子どもが生まれ、自然が多い場所で子育てをしたいと東京から真鶴へ移住してきた。知り合いもいない土地だったが、たまたま遊びに来たとき、一瞬でまちの雰囲気が気に入った。
「移住後に知ったんですが、真鶴には『美の基準』というまちづくり条例があって、バブル期の大規模都市開発から逃れたというか、昔ながらの町並みや懐かしい雰囲気が残っていたんです。とても懐かしい感じというか、初めて来たのに『帰ってきた』という感覚を覚えるくらい。歩いて海に行ける距離感も魅力でした(道子さん)」。新しい土地で新しい仕事をしようと考えていたが、本屋をやろうとは考えていなかった。「まちの人たちの『本屋さんがなくて寂しい』という声が多かったことがきっかけですね。ノウハウもないですしリスクも考えて、まずは軽自動車に百冊ほど積んで移動本屋からやってみようと(竹夫さん)」。
個人商店の駐車場やマルシェなど、県内のいろいろな場所に出向くと評判は上々。本をきっかけにお客さん同士の会話が生まれる様子に感動した。1年半ほど移動本屋を続け、2022年6月に、まちの電気屋さんだった空き物件を改装して店舗を構えた。
真鶴で暮らす。その文脈を大切にしたい
まちの人の声に後押しされる形で始めた〈道草書店〉。選書にもまちの人の声が生かされている。「まちの本屋さんとして営業したいので、特定のジャンルを扱う専門書店ではなくて、基本的にはオールジャンルを扱っています。お客さんの反応を観察しながら、求められている本、お客さん同士の話のきっかけになりやすい本、という視点で選んでいます(竹夫さん)」。
特徴的なのは「真鶴棚」と呼んでいる真鶴をテーマにしたコーナー。「礒浴び・海遊びのヒントになる本だったり、町内に貝の博物館(遠藤貝類博物館)があるので貝の本だったり、小松石の産地なので石の本だったり。この地域が箱根ジオパークの一部なので、ジオパーク関連の本、旅行関係も真鶴や近隣エリアに絞った本、いわゆる郷土本などもあります。〈道草書店〉が旅の目的地になるような、ここに来ないと見られない棚づくりを意識しました。観光客だけでなく、地元のお客さんでも発見があるらしく、選書を褒められることも多いですね(道子さん)」。
道子さんが選んでくれた旅に出る前に読みたい本も、真鶴棚にある1冊。ジャーナリストで夏目漱石の研究者でもある牧村健一郎さんの「漱石と鉄道」。漱石の作品に登場する鉄道風景を当時の時代背景と重ねて紹介している本だ。
「夏目漱石は真鶴を舞台とした『眞鶴行』という文章を残していて、実際に国府津から湯河原まで旅をした記録も残っています。この本は作者が当時の時刻表などを参考にして、漱石の鉄道旅をできるだけ忠実に辿っているんですが、漱石が真鶴にゆかりのある文人であること、真鶴を通る東海道線をよく利用していたことがわかります。文学作品の聖地巡礼という旅の楽しみ方もありますよね。真鶴を知り、真鶴を旅するきっかけになる本だと思います(道子さん)」。
店舗を構えて1年弱。これまでの歩みとこれからについて聞いた。「移動本屋から店舗へと営業形態を変えたのも『そこに行くと本屋があって、いつも開いている』、『あそこに行くとちょっと気持ちが豊かになる』、そんな日常を真鶴につくりたかったから。決まった場所があるとお客さんも来やすいですし、場所があることでできることも増えますから(竹夫さん)」。
朗読会や古本市など、本にまつわるイベントのほか、落語会や三線ライブなどのイベントをやることもあるという。「まちの人、みんながみんな読書好きとは限りません。それでも、ちょっとコーヒーを飲みにくるとか、ちょっとおしゃべりをしに来るとか、朗読会を聞きに来るとか、本を買う以外のきっかけがあれば来やすいですよね。いわゆるまちの本屋さんって、いつ行っても変わらないじゃないですか。そういう変わらない景色を、このまちで守り続けていけたらいいなと思います(道子さん)」。
Text:Atsushi Tanaka
Photo:Shinya Tsukiokaいつもと違う神奈川県観光には、足柄下郡真鶴の〈道草書店〉がおすすめ。
道草書店
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